明智光秀の娘である珠(たま)こと
細川ガラシャは一般的には美女にして才女
と言われていますが実際はそうではなかった!?
では本当の姿とは!?
最後まで細川ガラシャが守りたかったものとは!?
目次
明智光秀の娘である珠こと細川ガラシャの本当の姿とは!?
細川ガラシャといえば戦国時代でも1、2を争うほどの美女で
さらに温厚で聡明な女性であったと言われています。
ですが美貌はともかく
内面の性格的には本当はそうではなかったのです。
細川ガラシャは温厚な性格ではなかった!?
嫁いだ細川忠興の細川家も名門ですが、
細川ガラシャが生まれた明智家も名門の家柄ですので
自然と気位が高いお姫さまとして育ちます。
細川家と明智家
細川元有 【和泉上守護】
↓
三淵晴員
↓
細川幽斎
↓
細川忠興
土岐頼貞
↓
土岐頼基
↓
明智頼重
↓
↓ 11代後
明智光秀
↓
幼い時から美しい娘だったということは
いろんなところで言われていますが、
性格の方は怒りっぽくて気位が高いお姫さまだったようです。
何かあった時にはそこいらの男には負けません!
というくらい激しい性格だったようですね^^;
細川忠興に嫁いでからも
その気位の高い性格はそのままだったのですが
のちに言われるような温厚で聡明な才女と
噂されるようになるのはキリスト教の洗礼を受けてからの方が多いのです。
洗礼を受けたのはバテレン追放令が出された1587年あたりと言われています。
公にキリスト教はダメだと言われているのに洗礼を受けるというのは
女性ながらとんでもなく凄い勇気ですよね^^;
父の明智光秀や細川幽斎が親しかった高山右近から
キリスト教の話を聞かされて興味を持つようになり
もともとは禅宗でしたがキリスト教の洗礼を受けて
洗礼名のGratia(神の恵みという意味)ガラシャとなったのです。
知られている細川ガラシャの誕生
それまでの気位の高い怒りっぽい性格から
今わたしたちが伝え聞いている
温厚で才女の細川ガラシャのイメージと一緒になるわけですね。
細川ガラシャが本当に守りたかったものとは!?
天下分け目の関ケ原の戦いが起こる直前に、
西軍に味方につけたい石田三成が
東軍についている武将の奥方たちを人質に取ろうとします。
西軍の城に入れと言われても
東軍に味方している武将の奥方たちは断固拒否していました。
その時にどうしても城に入れて人質にしたい西軍は
細川ガラシャがいる屋敷を囲んで城に入ることを強要します。
ですがそこで細川ガラシャは夫である細川忠興に
人質になるくらいなら細川家の妻としてわかっているな!?
というようなことを言われていたので
聡明な細川ガラシャは家臣や子供たちを逃がしておいてから
屋敷に火を放ち家老の小笠原秀清に薙刀で隣の部屋から介錯させるという
壮絶な最後を迎えてしまうのです。
確かに細川ガラシャは夫の言いつけを守りました。
が、
本当に守りたかったのはそれだけでしょうか!?
細川ガラシャは嫁いだとしても明智珠であるということ
細川ガラシャは明智珠である。
このことがずっと細川ガラシャを
苦しめて続けていたのではないでしょうか。
明智珠の父である明智光秀は
1582年6月に本能寺の変と言われる謀反を起こし
主君織田信長とその嫡男織田信忠を討っています。
その後明智光秀は羽柴秀吉に討たれていますが、
明智珠は謀反人の娘として生きていかないといけません。
どんな理由があろうとも
謀反を起こして主君を討つのは大罪人であり
明智珠は大罪人の娘なのです。
父の罪を償い神に許しを請うためにキリシタンになり
父は裏切って謀反したけれど明智珠は裏切らない
ということをアピールすることによって
父明智光秀は思うところがあって反旗を翻したけれど
明智一族は人を裏切るようなそんな一族ではない
という強い想いで自害することにより
明智一族や関わる人たちを守りたかったのではないでしょうか。
まとめ
細川ガラシャが聡明だったというのは、
洗礼を受ける前に細川ガラシャが
修道士にさまざまな質問をした時に
こんなに聡明でちゃんとした判断が出来る女性と話をしたことがない
というようなことが伝えられていることでもわかりますね。
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激動の戦国時代を女性としてどう生きたかということから
細川ガラシャが守りたかったものを考えると
どれだけ大変だったかということは想像に難くないのではないでしょうか。