武将としても勇敢で領地の政治でも

民に慕われたと言われている高山右近は

細川ガラシャがキリシタンになる

きっかけとなった人とも言われていますが

どんな人物だったのでしょうか?

最後は日本で迎えたのではなく国外追放され海外で!?

細川ガラシャ入信のきっかけになった高山右近って誰?どんな人?

 

 

細川ガラシャは夫である細川忠興から

高山右近こと高山重友から聞いた

キリスト教最大の宗派であるカトリックの教えに強い興味を持ち

夫の細川忠興の忠告も無視して入信したと言われています。

 

そんな高山右近という人物は

どんな人物だったのでしょうか?

 

高山右近の経歴

1553年(天文22年)ごろ高山友照の嫡男として生まれる※天文21年とも言われる

1563年(永禄6年)10歳 イエズス会ロレンソ了斎の話に感銘を受け
               洗礼を受けジュストの洗礼名を得る

1568年(永禄11年)15歳 父高山友照と共に高槻城主和田惟政に仕える

1571年(元亀2年)18歳 高槻城主和田惟政が討たれ子の惟長が城主になり
               高山家が相談役になる

1573年(元亀4年)20歳 高山家が相談役になったことを気に入らない和田家臣の一部が
               高山親子を亡き者しようと企てるも失敗し
               和田惟長や計画を企てた者たちは近江へ逃亡。
               しかしこの時に高山右近は首の半分くらいを斬られる大けがを
               負いながらも奇跡的に一命をとりとめたことが
               よりキリスト教へ傾倒していくきっかけともなった。

               またこの事件後、高山親子は荒木村重傘下に入り
               高槻城主として手腕を発揮していく。

1578年(天正6年)25歳 上司である荒木村重が織田信長に反旗を翻す。
               村重に子供を取られてはいたが右近は信長に領地を返上して
               信長との戦を回避し、
               右近がいた高槻城が信長の支配下に入ったことにより
               村重配下の中川清秀も信長側へ寝返ることになったため
               村重の謀反は失敗に終わる。
               信長は右近の功績を認め高槻城主として再び返り咲く。

1581年(天正9年)28歳 鳥取城を攻める羽柴秀吉へ参陣し、戦状況を帰って信長へ報告する。

1582年(天正10年)29歳 甲州征伐に参加する。

1582年(天正10年)29歳 明智光秀に強く協力を申し込まれ参陣を期待されるも
                羽柴秀吉の軍勢に加わり山崎の戦いでは
                先鋒を担い奮闘し光秀軍を破る。

1584年(天正12年)31歳 小牧・長久手の戦いに参加する。

1585年(天正13年)32歳 四国征伐に参加する。

                播磨国明石郡に6万石を与えられ船上城を居城にする。

                バテレン追放令に従わず信仰を守ることを条件に
                領地と財産を全て失う

1588年(天正16年)35歳 前田利家に招かれ加賀国金沢で1万5千石の扶持を受ける。

1590年(天正18年)37歳 追放された身分のまま前田家として従軍し
                八王子城の戦いなどに参加。

1609年(慶長14年)55歳 前田利家の嫡男利長の相談役となっていた右近は
                利長の居城富山城が炎上したので新たな城を築城するにあたり
                縄張を担当したこれがのちの高岡城である。

1614年(慶長19年)60歳 キリシタン国外追放令が出たので前田家の加賀を離れて
                家族と共に長崎からマニラ行きの船に乗りマニラへ到着。
                この時家族だけではなく同じく追放されていた内藤如安
                共にマニラに来ている。

1615年(慶長20年)61歳 マニラについて2か月もたたないうちに死去。
                約40日程度のマニラでの生活ではあったものの
                聖アンナ教会にて10日間という長い期間
                マニラ市をあげて葬儀が行われた

 

高山右近は真面目で羽目を外さない性格の武将だったと言われています。

元々そんな性格だったのか10歳にして洗礼を受けたことにより

実直になったのかは定かではありませんが、

周りの武将や民からも慕われるという人柄だったのは間違いありません。

 

そんな徳のある高山右近が熱心になっているカトリックの教えに

細川ガラシャも興味を抱いて己の運命と照らし合わせて

すがるような想いで信仰に励んだのではないでしょうか。

 

高山右近と共にマニラへ渡った内藤如安はどうなった?

 

高山右近と共にマニラに渡った内藤如安(じょあん)は

高山右近が亡くなった後もマニラで暮らして

日本人キリシタン町のサンミゲルを築いています。

 

如安は右近より10年以上マニラで生きましたが、1626年に永眠。

その墓はサンミゲルの近くにある聖ビセンテ・デ・パウル教会にあります。

 

この内藤如安が縁となって

内藤如安の父である内藤長頼と共に統治していた

京都府南丹市にあった八木城があった南丹市(旧八木市)が姉妹都市となっています

 

 

高山右近が福者に認定された?

 

 

2015年に日本カトリック中央協議会が

高山右近没後400年にあたるこの年に

あの戦国時代に地位を捨てて信仰を曲げずにを貫いた殉教者である

としてローマ教皇庁に高山右近を福者に認定するように申請を出しました。

 

翌2016年に教皇フランシスコが認可。

 

2017年2月7日大阪府大阪市にある大阪城ホールにて

列福式がアンジェロ・アマート教皇庁列聖省長官が代理として執り行われました。

 

 

福者とは?
カトリック教会が信者が亡くなった後に
生前その徳と聖性を認められたものに与えられる称号です。

「聖人」の称号に次ぐ称号と言われており大変名誉ある称号なです。

また福者の称号を与えられることを「列福」といいます。

 

 

まとめ

 

高山右近は戦国時代のド真ん中に生まれて

奇しくも戦国時代の終わりである慶長20年1615年に没しています。

 

まさに最後の戦国時代を生きたわけですが、

キリスト教の教えに触れて

その時代に生きた人にしか感じられなかったような光と温かさを

強く感じたのかもしれません。

 

高山右近の貫いた強い信仰心が福者として認定され

今また高山右近の生涯を通しての生き方が注目されてくるのではないでしょうか。

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