南光坊天海が明智光秀って本当?徳川家康の側近になったの?

徳川家康の側近として仕え数々のアドバイスをしたと

言われている南光坊天海ですが、

そもそも南光坊天海が明智光秀というのは本当なのでしょうか?

南光坊天海が明智光秀というのは本当!?

 

まことしやかに囁かれている噂ではありますが、

南光坊天海は明智光秀ではありません

 

南光坊天海はちゃんとしたお坊さんですので戦国武将の明智光秀ではありません。

当然、明智光秀が徳川家康の側近として仕えたということではありませんね。

 

なんで南光坊天海は明智光秀だと言われるの?

 

 

本当に諸説あるんですよね。

 

南光坊天海が明智光秀だったという方が

歴史的なロマンがあるということもありますが

推測や邪推というのもありきで説を3つ紹介させて頂こうかと思います。

 

  • 明智光秀を討った豊臣秀吉を倒してくれたから側近になった説
  • 明智光秀が伊賀越えの時に徳川家康を助けたから説
  • そもそも明智光秀と徳川家康の描いたシナリオが本能寺の変だった説

 

明智光秀を討った豊臣秀吉を倒してくれたから側近になった説

 

 

そもそも豊臣秀吉こと当時の羽柴秀吉の軍に山崎の戦いで敗れてしまい

落ち武者狩りに遭ってしまったのならばそれで終了なのですが、

その難を逃れて何かしらかくまってもらったり逃げたりしたと仮定します。

 

その後の情勢が変わり関ケ原の戦いにも勝って

名実ともに徳川家康が天下人となったので、

徳川家康としても織田信長が存命であれば

征夷大将軍になることも出来なかったわけです。

 

そこにある種の恩を感じた徳川家康が

身なりを変えさせて信長を討った南光坊天海こと明智光秀を側近として仕えさせた。

・・・という説ですね。

 

これには少し似たような話があって

能力のある人物は敵対する者でも雇うという例があるからなのです

 

 

織田信長は宿敵武田家を滅ぼした時に、

旧武田家の家臣たちを雇うなと厳命したそうですが

徳川家康は武田信玄にこっぴどくやられていたにも関わらず、

ある種の尊敬というか憧れていたところがあったらしく

織田信長に内緒で旧武田家の家臣たちを密かに仕えさせていたのです。

 

もし織田信長にバレたらえらいことになるのはわかりきっているはずなのに

それでも雇うというのは相当な勇気と

それだけ旧武田家の家臣達をかっていたのでしょう。

 

それだけの勇気がある徳川家康と言えども、

流石に織田信長を討った明智光秀を南光坊天海として

側近として仕えさせるというのは相当厳しいのではないかと思います。

 

そもそも徳川家康と織田信長は同盟国だったわけですから

同盟国を討った明智光秀をあの時はありがとうと雇うなんて

当時も今もさすがにないのかなと思います。

 

明智光秀が伊賀越えの時に徳川家康を助けたから説

 

 

これも何かしらの暗号ともニュアンスともいえるような書物が

明智側から徳川側へ送られたものが残っているとかいないとかだったと思います。

 

本能寺の変が起こったときに徳川家康は織田信長から長年の労をねぎらうために

安土城へ招待したり大阪の堺の見物などをさせてもらっていますが、

その接待役というか案内役が明智光秀だったと言われています。

 

途中で明智光秀は中国攻めに苦しむ羽柴秀吉の応援に出陣するために

領地に帰って戦の準備に入りますが、

その時に何やら一朝ことがあった場合には畿内を抜けるには

こういうルートがあるよとか聞いていたとかいないとか・・・

 

この堺への物見遊山は徳川家康はさほど多くのお供を連れていなかったのです。

これはもちろん織田信長への配慮でしょう。

 

織田信長は本能寺に少数の手勢のみで宿泊しているので、

徳川家康が物々しい大軍で京都や堺に乗り込むと

あるいは信長を討つ腹があるのかもしれない

と思われるかもしれないので用心して少数の人数にしたのでしょう。

 

仮に、

明智光秀が畿内で何かあった時にはこういうルートがありますよと

徳川家康に教えていたとしても実際に伊賀越えするのは至難の業であり

のちに天下人になるべくしてなったという運を持っていたと考えるべきでしょう。

 

その後にあの伊賀越えの時にルートを教えてくれたからといって

名前まで変えて側近として仕えさせるというのは、

信長時代の武将たちも少なからずいたわけですから顔バレするでしょうし

いろいろと無理がある説だと個人的には思います。

 

そもそも明智光秀と徳川家康の描いたシナリオが本能寺の変だった説

 

 

諸説ある中でも個人的には凄く興味がある説です。

 

明智光秀は若い時から苦労しているので

相手に対して高圧的に出ることなどまずなく

礼儀作法も心得ていて教養も高く

いわゆる秀才肌のちゃんとした大人の対応が出来る人でした。

 

また徳川家康も幼少期から他国に人質になったりして

多くの苦労してきているので後年ならいざしらず

織田信長が存命な時には誰に対しても愛想よく

時には相手ににへりくだることもしばしばあったようです。

 

何と言っても徳川家康といえば「三河の律義者」として有名でしたから

とにかく裏切らないという圧倒的な信頼感を与えていましたので、

明智光秀も徳川家康に同じような真面目さを感じ

よしみを通じていてもおかしくありません。

 

織田信長という同じ悩みの種でもある親方を担いでいるのであれば、

似たもの同士が共闘して目の上のタンコブを取り除く

という風に流れてもおかしくはないと

考えられなくもないのではないでしょうか?

 

これまでに明智光秀も徳川家康も

織田信長から相当な無理難題を言いつけられて

何度となく苦渋を飲まされてきています。

 

さらに直近で明智光秀はライバルでもある羽柴秀吉の応援として

中国攻めを助けろという命令を下されていますし、

徳川家康は少し前になりますが武田との内通を疑われて

正室の築山殿と嫡男松平信康を失うという悲劇を被っています。

 

もう我慢の限界!となって

一人ではさすがに出来なくても

誰かと一緒に行動するのであれば・・・

それが実力者であれば・・・

・・・お互い手を取って来るべき時の為に準備をしていた・・・

 

それが明智光秀と徳川家康の描いた本能寺の変というシナリオだった。

というのであれば凄く興味深いのではないかと思います。

 

明智光秀の謎の行動

徳川家康をねぎらうための安土城への接待係を受けていた明智光秀ですが、
明智光秀らしからぬ失態をしています。
それは徳川家康への食事を用意していたのですが、
その食材が腐っていたというのです。
怒った信長は明智光秀を足蹴にして接待係を解任したということですが
秀才明智光秀がそんな凡ミスをするでしょうか?

 

実は明智光秀は織田信長から徳川家康暗殺を命じられていた!?

宿敵武田家を滅ぼした後にふと徳川家康にしてきたことを翻って鑑みて

そろそろこいつ耐えきれなくなって爆発するかもしれないと考えて

いっそのこと食事に呼んで亡き者にしてしまおうと考えたのではないかという

今回の説の重要なポイントになるところです。

 

ですがもし

明智光秀と徳川家康が裏で盟約を結んでいたのであれば

わざと腐った食事を出して労いの席を台無しにしてしまえば

徳川家康を救えるという切れ者の明智光秀ならやりそうな機転ではないでしょうか。

 

もしそうだとすれば安土城での接待においての謎の失態も

腑に落ちるというものではないでしょうか・・・という関連付けです。

 

 

まとめ

 

 

明智光秀が姿かたちを南光坊天海に変えて

徳川家康の側近になっていたというのは、

どこで誰が言いだしたのかはわかりませんが

歴史のIFを感じさせる面白い話ですよね。

 

ただ後世には裏切り者と一般的に呼ばれている明智光秀ですが、

どこかでよくぞ織田信長を討ってくれたと手をたたいている人も

少なからずいたのでしょう。

 

文官としても武官としても優秀で領民からも慕われていたので

もし生きていたら・・・という歴史のIFから

徳川家康に仕えた南光坊天海が明智光秀だったらという話が

まことしやかに広がったのではないでしょうか。

 

 

 

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