戦国時代の武将が名前を変えることは多いですが、
惟任日向守って誰なのでしょうか?
明智十兵衛光秀って本当でしょうか?
本当だとすれば何故名前を惟任にしたのでしょうか?
惟任日向守って誰なの?
聞きなれない名前ですが
惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)は明智十兵衛光秀のことです。
どうして名前を変えたの?
明智十兵衛光秀は天正三年(1575年)に朝廷から日向守に任じられ、
また姓を九州の名門である「惟任」に変えています。
これは織田信長が天下布武の道を進むために、
この時すでに九州を狙っていたということでしょう。
明智十兵衛光秀が惟任日向守になった時には、
丹羽五郎左衛門尉長秀も惟住長秀と名前を変えています。
この「惟住(これずみ)」という姓も九州の名門の名前なので、
九州へ攻め入った時に少しでも民心を掴もうとする手だったのでしょう。
もっと有名なところでは羽柴藤吉郎秀吉が「筑前守」に任じられたのもこの時です。
明らかに九州を意識した官位を貰っていますよね。
とはいえ
まだこの時期は長篠の戦いで武田勝頼を破ったとはいえ武田家は健在で
信長が最も恐れた武田家が滅ぶのはこの7年も先なのです。
どれだけ信長が先を見越して手を打っていたかということがわかりますね。
まとめ
明智十兵衛光秀が惟任日向守と同一人物なのも驚きですが、
織田信長がどれだけ天下布武に自信をもって進んでいたかが
この任官や変名でもわかりますね。
明智十兵衛光秀が惟任日向守に任じられた時は、
まだまだ織田信長も安心できない四面楚歌の時だっただけに
どこからその自信があって九州征伐のことまで考えられるのかと
織田信長の心の内面にうちいってみたくなりますね。