全国高等学校野球選手権の愛知大会にひとりの選手が打席に立ちました。
名古屋大谷高校の津森慶二選手。
彼は脳梗塞の後遺症で半身マヒが残っていても
野球が大好きでリハビリを続け人一倍の練習をして
やっとたどり着いた公式戦の打席だったのです。
目次
できないと言う言葉が嫌い!できると思って練習してきた
そこには彼にしか解らない
辛さや苦しさがあったはずです。
脳梗塞の後遺症が右半身にマヒとして残ってしまったがゆえに
思ったように動かせないもどかしさが
時には苛立ちを隠せずに何かにあたってしまうことも少なくなかったでしょう。
とにかく振る、振って振って振りまくる。
人一倍いや何倍もの練習をして汗をかく姿は
チームにも影響を与えないわけがありません。
「自分たちも負けられない」
キャプテンもチームメイトも刺激を受け
大きな目標に向かって一丸となって練習の日々を過ごしていきます。
「試合でここで1本欲しいという場面で出すのは彼だ」
その信頼を勝ち取って監督から背番号を貰います。
背番号「20」を貰った津森慶二選手は高校野球生活において
初めてもらった背番号でした。
背番号20を付けて
津森慶二選手は7月9日の試合で
代打で公式戦の打席に立つのです。
小学校6年の時に脳梗塞になり右半身不随と言語障害が残る
津森慶二選手は
小学校6年の時に脳梗塞を発症する以前に
不整脈で練習に倒れたこともあり
ペースメーカーを入れて練習していたけれど
それでも野球をやめなかった。
しかし
さすがに脳梗塞を発症した時は
相当きつかったのでしょう。
当時の気持ちが「第36回全国中学生人権作文コンテスト愛知県大会中日新聞社賞」
を受賞した「中身が大事」という当時飛鳥中学校3年だった
津森慶二選手の作文でも表れています。(一部抜粋)
僕は、小学校6年生の初めに脳梗塞になりそのため右半身不随と言語障害を伴った。
それまでは、右手も右足も自分の思い通りに動かすことができ、
普通の人が感じる感覚で、何不自由ない生活を送っていた。
しかし、突然の脳梗塞の後遺症からは、
右手を動かすことも、右足を動かすことも、
言葉を失ってしゃべることもできなくなった。
普通のことがうらやましく、右手を動かせる、右足を動かせる、
普通に歩ける、言葉が話せる人すべて、赤ちゃんでさえうらやましく思えた。
(中略)
・・・僕もベットの上でよく泣いていた。
でも、泣いていても先に進めない。
目覚めたら普通に戻っていたら・・・、
夢だったら・・・といつも思っていたが動かすことが出来ないのが現実・・・。
今できるリハビリを、つらいけど、苦しいけど少しずつやって元の姿に戻るんだ!
って気持ちに切り替えた。
とにかく大好きだった野球をやりたくて
苦しいリハビリにも耐え頑張ったけれど
戻った小学校では自分が景色も
自分を見る周りの目も180度違っていました。
だけど、僕は負けない。誰も好き好んでなったわけではない
それでも津森慶二選手は
中学校に進んでも野球への情熱は変わらずに
後遺症が残ってみんなと同じことを全部は出来ないとしても
リハビリと自分のできる練習をして3年間過ごします。
中学の時のある試合で
津森慶二選手が打席に立った時に
相手チームの一塁手が自分を見て笑っていたのです。
後遺症の影響で右半身がうまくコントロール出来ないがゆえに
何か普通と違う仕草だったり普通と違う走り方だったり
それを見て馬鹿にして笑っていたのです。
でも津森慶二選手は
こんな場面はこれから高校へ行っても、社会に行っても、幾度とあるだろう。
だけど僕は負けない。
と強い気持ちで立ち向かっていくことを心に決めるのです。
守備や走塁は捨てて打撃を集中して磨くことに専念した
高校へ進学した津森慶二選手は
ほぼみんなと同じ練習をこなせるくらいに
身体を動かせるようになっていました。
ですが
どうしても右半身マヒの後遺症が響いて
ベンチ入りすることは出来なかったのです。
そこで打撃に特化して練習することで
チャンスを見出そうと考えたのです。
どうしても守備や走塁だと右半身マヒの影響が大きいので
バッティングで何とか活路を見出したいと。
とはいえ
右半身にマヒが残る右腕では
右打者の津森慶二選手はフォロースルーで
右腕での最後の押し込みができない苦悩があったはずです。
恐らくは左腕1本で打つようなイメージで
右手は添えるような感じでしか振れないのではないでしょうか。
それでもフルスイングする。
ずっと練習してきた野球への想いは誰にも負けません。
もしかすると元阪神タイガースの金本知憲選手が
骨折した左手を添えて右腕一本でヒットを打ったあのイメージで
打席でフルスイングしていたのかもしれません。
その練習への姿勢がチームメイトにも監督にも伝わり
背番号20へと繋がったのです。
野球という存在があってよかった
高校球児として
第101回全国高等学校野球選手権愛知大会の
公式戦に代打で打席に立った津森慶二選手は
三振という結果に終わってしまいました。
ですが彼は悔しそうな表情でこういったそうです。
「苦しいことやできないことも結構あったけど
楽しいかったことの方が多かった。野球という存在があってよかった」
また津森慶二選手は
いつもこう自分に言い聞かせているそうです
できないという言葉は嫌い。
できる、できる。
と思ってやってきたと。
まとめ
公式戦でヒットを打つことは出来なかったわけですが
そこに至るまでの経緯は
どんなヒットやホームランを打つよりも困難で難しく
もしかすると彼以外では乗り越えられないことだったかもしれません。
この後の人生でも
今まで以上に困難なことに遭遇するかもしれませんが
彼ならば真正面から立ち向かいフルスイングで対応して
打ち勝って乗り越えていける人だと感じました。